30年史のために(9) 戸手開拓伝道に向かって 関田寛雄

桜本から戸手に移り住んで気付いたことは、「土手下」と言われる戸手四丁目河川敷に多数の在日コリアンの人が集中して住んでいることであった。桜本での在日コリアンとの交わりは私の桜本伝道にとってはとても大きな要素であったし、そこから学んだことはまことに貴重な経験であった。

したがって眼前にこのような在日の地域があるという事実は、私にとってとても大きなチャレンジともいうべき事であった。
しかしそれが具体的になるには尚、年を経なければならないのである。
神のみがその後の経過を導かれたと言う他ない。私が桜本を離れ、戸手に開拓伝道をしたいと、桜本教会に申し出た時、藤原繁子牧師始め会員の皆さんにとっては大きな衝撃だったようである。

21年前に伝道を始めた時、伝道所のために50坪の土地を無償で
提供して下さった眞保保郎兄(数年後に浅野順一牧師より受洗されるに至った)、八重子姉も強く反対されたのだが、青山学院大学における私の窮状(神学科廃科と教員解雇の予定)を説明し、もう一度0から再出発したいという私の思いは遂に受け入れて頂いた。

そして協議を重ねた結果、二つの事が決定された。
一つは桜本教会は戸手で関田が開拓伝道するにしても、いわゆる「親教会」としての支援は出来ないので、神奈川教区をいわば
「親教会」として始めるなら始めてもらいたいという事。
二つには戸手伝道の基盤造りのために四名の会員を「株分け」する事。
そしてその四名は、石井はな、西村安子、南条すみ江、そして繆とよの
諸姉と決まった。

石井はな姉は若い時から児童福祉の仕事に携わっていて、当時は余り健康には恵まれなかったが、小さなアパート経営で生活を支え、西村姉と共に「おさなご」という月刊雑誌の発行に情熱を燃やしておられた。
西村安子姉は川崎市児童相談所の相談員として永年働いておられ、児童文学作家として数冊の著作もあり、石井姉とコンビを組んで「おさなご会」を主宰しておられた。

南条すみ江姉は川崎市立保育園の保母としてやはり永年の経験を重ね、その関係で西村、石井両姉との交わりの中で桜本教会に来られていた。繆とよ姉も含めて四人の戸手開拓伝道の協力者に集まって頂いて、今度の伝道の方針について話し合った時、私が先ず申し上げた事は、桜本教会での伝道の経験、就中、在日韓国教会との交わりをふまえて、日本基督教団の「戦争責任告白」(1967年復活節に鈴木正久教団総会議長名で公布された)を基本方針にしたいという事と、牧会の標語としては桜本教会時代のもの、即ち「聖書による独立・神と人への奉仕」を継承する事であった。四人の方々は勿論、異論なく賛成して下さったのである。

こうして戸手開拓伝道の基本理念とする所はこの時定まった。
この事の意義についてはまた改めて述べる事にしたい。

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